3月なのに冷たい雨が降っています。どこへも行きたくないな。もうすぐ手術だし、風邪を引いても困るし。今日は、気になっていた街道ウォーク関連の記事を更新します。
2月8日のウォーク、「府中→丸子」間のまちなみウォッチです。通常のレポート(バイブルにしているガイドブック『ちゃんと歩ける東海道五十三次』八木牧夫 山と渓谷社に名所旧跡として記載されているチェックポイントをたどるレポート)とは別に、歩ていて、思わずツッコミを入れたくなったショットや、心に残った風景を、気の向くままにレポートします。
それでは、しばしお付き合いください。
朝の静岡駅です。ここからスタートです!
駅前のメインストリート。うーん、なかなか都会。少なくとも、東京郊外のわが町(東京の田舎)よりもずっとずっと。
くだもの専門店に心惹かれて。くだものって、きれい。天井付近のバナナのオブジェにツッコミをいれたいかも。
呉服町の通りです。たくさんのお店が軒を連ね、活気があります。シャッター通りではありません。こういうの、嬉しいですね。
東海道を意識したオブジェ。安藤広重の東海道五十三次の浮世絵をはめ込んだこのタイプのものが、数メートルおきにありました。
呉服町についての説明板をアップします。
今川氏の時代から駿府本町として栄えていて、徳川家康の時代になって(慶長14年 1609)、呉服町と呼ばれるようになりました。その名の通り戦前まで十数軒の呉服屋さんが軒を連ねていました。東海道沿いの駿府の中心商店街だったのです。
今では五つの福がそろう呉服町。ますます繁盛しますように。
こちらも、呉服町についての説明碑です。
家康公の衣服などを用意する呉服屋があったことに由来します。呉服屋の他、小間物屋も軒を連ねていました。ここの商人の一人で町年寄でもあった友野宗善は、家康公のまちづくりのアドバイザーでもあったそうです。という説明です。
駿府城下町は、武田氏や今川氏のころからすでに整備されており、家康がそれに手を加えて理想的な城下町にした・・・と言う説明です。ざっくりですみません。
静岡おでんまつりのポスター。おでんおいしそうだなあ、いいなあ・・・なんて思ってパチリしたのですが、これ、たぶん中止ですね。コロナ感染症の影響は、あちこちに。
呉服町でひときわめだつビル。ふしみや。
くろやぎ(同行人・夫)がググって、江戸時代からの老舗だと教えてくれました。朝は冴えてるくろやぎ。
伏見屋は、1607年(慶長12年)、かの徳川家康公と主従関係にあった初代 小山善蔵が京都伏見より来静し、駿府に移り住んだのが「伏見屋」創業の始まりです。
徳川家御用商人、豆腐商、小間物製造販売と商いの形態を変えながら第十三代の時代から「他の人の為せざる事をしてこそ抜んずるすべもあれ」という信念のもと、箱根の山を越えて頭髪油や小間物を江戸で買い付け、呉服町にて販売を開始。
以来、婚礼の日本髪用品なども扱い、『静岡の美の文化』の発展に貢献して参りました。そして今もなお化粧品専門店として地域に貢献しております。(ふしみやHPより)
帽子屋さんです。あまりいい写真ではありませんが、珍しかったので。たしかに、呉服町ですものね、帽子専門店があるのもうなづけます。
街道を歩いていたのですが、札の辻から県庁方面に、ちょっと外れてみました。
静岡市役所です。1932年竣工。堂堂たるたたずまいです。
庁舎敷地内の植え込みに、駿府町奉行所跡の碑がありました。
こちらも敷地内の碑。静岡の」由来についてです。
廃藩置県の際、府中・駿府の名前をどうするかというときに、市内葵区にある賤機山(しずはたやま)にちなんで賤ヶ丘(しずがおか)に一旦決まったけれど、時世を考慮して「静岡」にしたそうです。
正面に街灯があります。ガス燈? 確認したわけではないのでさだかではありませんが。
こちらも、植え込み内にあった説明碑です。
同じく植え込み内にあったもの。
徳川家康は駿府に居を構えるの当たり、安倍川の治水を目的に「薩摩土手」など大規模な築堤工事をおこなったということが書いてあります。家康、インフラ整備に余念がありませんね。
県庁です。こちらも堂々たる風格。1937年に完成した建物で、コンクリート造りのビルに瓦屋根を載せた帝冠様式。
近づいてもう一枚。
窓辺に花が飾られています。
「花と緑のあふれるまち」の一環なのですね。
道路をはさんで県庁と市役所が向かい合わせになっています。かつては、駿府城の向かいに奉行所があったわけですね! と理解しました。
県庁の斜め前のこちらは、静岡中央警察署。
静岡県議会議事堂跡でもあるようですね。
県庁・市役所・警察に近いところに、このような古地図の大きなパネルがありました。 パチリしたかったのですが、看板があって無理でした。残念。
こちらはひなんマップです。街道ウォークをしていて、なぜか避難地図をみるとパチリしてしまうのです。
札の辻に戻ってきました。呉服町通りと七間町通りが交差するところです。右手に見えるのが伊勢丹です。
こちらも札の辻です。里程元標の跡を示す膝丈ほどの石碑があります。(わかりにくいですが)
こちらです。里程元標とは静岡市の道路元標です。ここにそれがあったというわけですね。
近くにこのような古地図のパネルもあります。
札の辻付近には、このようなオブジェもありました。
静岡市は、アメリカ合衆国ネブラスカ州オマハ市と姉妹都市なのですね!
札の辻から七間町に入ります。 七間町通りは、道幅が七間あったことからこの名が付きました。七間は約14メートル。え、江戸時代に14メートル。すごく広いですね。びっくり。
七間町通りには、七ぶらシネマ通りの表示もありました。映画館が多いからかな?
歩道には数メートル間隔に、こんな展示が。映画関連の昔の器械のようですね。
七間町通りには、府中宿についての説明碑もありました。
江戸時代の街道と城下町は、敵の侵入を防ぐために、道を曲げたり、お寺を外側に配置したりするくふうをしていました。(これまで通ってきた宿場もそうでしたね。) ここ府中宿も、そのような理由から複雑なルートを取っています。現代となっては、街道ウォーカー泣かせ。いえいえ、構いませんよ。往時を多い浮かべながら歩くのもロマンチックでまたよし。
こちらが、現在の地図。なるほど、ジグザグ。
七間町についての説明碑です。竹細工やろうそくを扱うお店が軒を連ねていたそうです。
また、家康が駿府に住んでいた時、豊臣秀頼の鐘楼事件(京都のお寺の鐘に「国家安泰」と刻んだところ、「家康」の名を真っ二つにしたとして、怒りを買った)についてお詫びをするために、秀頼の乳母が訪ねたのが、ここ七間町の大野宇治の家です。駿府城の家康に直接謁見するのは恐れ多いとの理由で、こちらに家康の側室の阿茶の局を招いて謝りました。後に家康に直接弁明する機会もありましたが、結局この事件が大坂夏の陣の引き金になるのです。
家康は、どう謝られても、これを理由に豊臣をつぶすつもりだったのでしょうね。秀吉は、どうも好きになれないけど、家康もタヌキ。
説明板に近づいて撮ったものをもう一枚アップします。
バイブルに寄りますと、サッカーショップで右に曲がることになっています。サッカーショップではなくて、現在は、チョコレート屋さんでした。今後、街道ウォークをされる方は、要注意かも。チョコレート屋さんのところに、上記の碑もありました。
チョコレート屋さんの角を右に曲がると、津島神社へ続く道になります。静岡市の中心街は外れたようですので、ブログもここで一旦閉じることにいたします。近々続きをアップします。またお越しくだされば嬉しいです。
今日もお訪ねくださり、ありがとうございました。